眼鏡っ娘の発展過程に関する基礎作業(2)
−コミケカタログ篇 (2001.8.14)
■はじめに
眼鏡っ娘の勢力が拡大していることは、多くの人々が気付いている。しかしそれを客観的に示す具体的なデータは存在しない。そこで本論は、眼鏡っ娘の勢力が拡大する歴史的な過程を明らかにするために、コミケ・カタログのサークルカットに登場する眼鏡っ娘の数の変遷を検討した。同時にメガネ君の変遷過程も検討する。
■方法
コミケ・カタログのサークルカット全部に目を通し、眼鏡っ娘とメガネ君の数をカウントする。コミケへのサークル参加数は回によって大きく異なるので、眼鏡っ娘とメガネ君の実数を全サークル数で割り、比率を出す。
■全体的な趨勢
カウントした結果を表1とグラフ1に表した。
まず解ることは、眼鏡っ娘の勢力が着実に拡大していることである。とくに第47回(94年冬)からは着実に増加している。細かい趨勢については後に詳しく検討する。
メガネ君は90年代前半に急激に増加し、94年冬から安定状態に入る。94年から01年まで細かな変動はあるが、極小値と極大値でも変動の幅は0.29%と非常に小さく、誤差の範囲と見ていいだろう。
眼鏡っ娘の拡大は94年冬から始るが、この年に同時にメガネ君の頭打ち現象が発生する。この年が眼鏡勢力における一つの節目と見ていいだろう。
以下、細かい動勢について検討する。
| 表1:コミケにおける眼鏡勢力の変化 |
| 年 |
回 |
サークル総数
(A) |
眼鏡っ娘数
(B) |
眼鏡っ娘比率
(B/A) |
メガネ君数
(C) |
メガネ君比率
(C/A) |
眼鏡島 |
当会配置 |
| 87年夏 |
32 |
4510 |
15 |
0.33% |
58 |
1.29% |
|
|
| |
33 |
|
|
|
|
|
|
|
| 88年夏 |
34 |
9020 |
22 |
0.24% |
110 |
1.22% |
|
|
| 89年春 |
35 |
8772 |
16 |
0.18% |
101 |
1.15% |
|
|
| 89年夏 |
36 |
10114 |
15 |
0.15% |
126 |
1.25% |
|
|
| |
37 |
|
|
|
|
|
|
|
| |
38 |
|
|
|
|
|
|
|
| 90年冬 |
39 |
12964 |
41 |
0.32% |
191 |
1.47% |
|
|
| |
40 |
|
|
|
|
|
|
|
| 91年冬 |
41 |
15776 |
67 |
0.42% |
266 |
1.69% |
|
|
| 92年夏 |
42 |
11857 |
33 |
0.28% |
223 |
1.88% |
|
|
| 92年冬 |
43 |
15220 |
49 |
0.32% |
336 |
2.21% |
|
|
| 93年夏 |
44 |
15724 |
66 |
0.42% |
402 |
2.56% |
|
|
| 93年冬 |
45 |
15683 |
67 |
0.43% |
353 |
2.25% |
|
|
| 94年夏 |
46 |
16161 |
68 |
0.42% |
380 |
2.35% |
|
|
| 94年冬 |
47 |
15507 |
92 |
0.59% |
421 |
2.71% |
|
|
| 95年夏 |
48 |
22343 |
206 |
0.92% |
601 |
2.69% |
|
|
| |
49 |
|
|
|
|
|
|
落選 |
| 96年夏 |
50 |
18959 |
135 |
0.71% |
489 |
2.58% |
4 |
オ37b |
| 96年冬 |
51 |
22597 |
165 |
0.73% |
607 |
2.69% |
2 |
ム34a |
| |
52 |
|
|
|
|
|
|
|
| 97年冬 |
53 |
22409 |
223 |
1.00% |
544 |
2.43% |
4 |
E7a |
| 98年夏 |
54 |
33849 |
326 |
0.96% |
897 |
2.65% |
7 |
ラ48b |
| 98年冬 |
55 |
23717 |
247 |
1.04% |
614 |
2.59% |
7 |
落選 |
| |
56 |
|
|
|
|
|
|
落選 |
| 99年冬 |
57 |
24868 |
300 |
1.21% |
642 |
2.58% |
14 |
F3b |
| 00年夏 |
58 |
35065 |
433 |
1.23% |
849 |
2.42% |
23 |
コ18b |
| 00年冬 |
59 |
23210 |
356 |
1.53% |
627 |
2.70% |
22 |
F36b |
| 01年夏 |
60 |
34961 |
459 |
1.31% |
851 |
2.43% |
9 |
キ29b |
| 01年冬 |
61 |
23167 |
382 |
1.65% |
634 |
2.74% |
14 |
ウ42b |
■眼鏡っ娘の拡大過程
(1)第一期:〜第46回(94年夏)
まず、眼鏡っ娘勢力の拡大が始まる94年以前の状況を概括する。この時期は、残念ながら眼鏡っ娘冬の時代といってよい。
その中で奮闘していたのが「メガネの娘でなきゃやだ」である。この眼鏡っ娘専門サークルは80年代後半から94年冬まで頻繁にコミケに参加し、眼鏡っ娘勢力の土台を築いた。冬の時代に土台を支え続けたことは、いくら評価しても、しすぎることはない。90年代初頭には現在も活動中の「WAX−G2」がMSXなどコンピュータCG部門で登場し、秀逸な眼鏡っ娘サークルカットを連発し続ける。みやもと留美氏の「深漆黒雑居工房」、少女創作系の「東風の吹く国」もコンスタントに眼鏡っ娘サークルカットを載せ続け、冬の時代ながらも着実に土台固めが進行していることが解る。
(2)第二期:第47回(94年冬)〜第51回(96年冬)
この時期、ようやく眼鏡っ娘が目に見える形で増加を始める。
この時期の増加要因は、オリジナル系での眼鏡っ娘の増加と、二次創作における眼鏡っ娘の増加に大きく分類できる。たとえば第47回(94年冬)には眼鏡っ娘比率が初めて0.5%を超えたが、この時期には世間では『セーラームーン』、『ストリートファイターU』、ナコルルなどが大流行しており、二次創作系では眼鏡っ娘がほとんど目立っていない。第47回の増加要因はもっぱらオリジナル系に拠っている。カットの中に「メガネに弱い」という書き込みが増加するようになるのもこの時期である。
しかし第48回(95年夏)で目立つのは、『レイアース』の風ちゃんである。眼鏡っ娘数206に対し、風ちゃんは単独で47カットを占めている。眼鏡っ娘全体の中で、風ちゃんはなんと22.8%という大勢力を誇ったのである。単独キャラクター率でも21.04と高いポイントを示しており、風ちゃんがいかに優秀なキャラクターだったかが理解される。ただし風ちゃんをまったく除外して計算したとしても眼鏡っ娘比率は0.71%となり、前年を上回る。この増分が主にオリジナル系が担っていることに注意する必要がある。このあたりの主要な眼鏡っ娘キャラクターの変遷は表2に掲げた。キャラクターに関しては後に詳しく検討する。
そしてこの時期、コミケのサークル配置において、ようやく眼鏡勢力が固まり始める。第50回(96年夏)において眼鏡系サークルが4つ固まって配置されたのが、眼鏡島形成の端緒である。ただこの時期においては、残念ながら明確に眼鏡島が固まるには至らない。2年を経た第53回(97年冬)においても、眼鏡島に結集した眼鏡系サークルはまだ4つに過ぎなかったのである。
また手前ミソながら、この時期に我々の眼鏡活動がスタートしている。はじめての眼鏡っ娘同人誌は1994年の冬に上梓し、『メガめがね』誌の単発発行を挟んで、1995年冬には「めがねコミュニケーション宣言」として初めてコミケに委託参加している。第50回(96年夏)には初当選を果たし、現在に至るまで10回の参加を重ね、微力ながら眼鏡勢力の拡大へ貢献しようと努力を重ねているところである。
| 表2:眼鏡っ娘キャラクター登場率(左が総数、右がポイント) |
| |
48回 |
50回 |
51回 |
53回 |
55回 |
57回 |
59回 |
60回 |
61回 |
| 鳳凰寺風 |
47 |
21.0 |
6 |
3.17 |
1 |
0.44 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| 如月未緒 |
|
|
4 |
2.11 |
15 |
6.64 |
3 |
1.34 |
5 |
2.11 |
3 |
1.21 |
2 |
0.86 |
4 |
1.14 |
1 |
0.43 |
| 姫宮アンシー |
|
|
|
|
|
|
42 |
18.7 |
3 |
1.27 |
|
|
|
|
|
|
1 |
0.43 |
| 李紅蘭 |
|
|
|
|
|
|
17 |
7.59 |
6 |
2.53 |
5 |
2.01 |
4 |
1.72 |
8 |
2.29 |
2 |
0.86 |
| 委員長 |
|
|
|
|
|
|
8 |
3.57 |
11 |
4.64 |
15 |
6.03 |
23 |
9.91 |
22 |
6.29 |
16 |
6.91 |
| 鳴瀬真奈美 |
|
|
|
|
|
|
|
|
7 |
2.95 |
6 |
2.41 |
4 |
1.72 |
4 |
1.14 |
|
|
| 藤原はづき |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
34 |
13.7 |
12 |
5.17 |
14 |
4.00 |
7 |
3.02 |
| 猪名川由宇 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
15 |
6.03 |
16 |
6.89 |
23 |
6.58 |
24 |
10.4 |
| 牧村南 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
15 |
6.03 |
12 |
5.17 |
20 |
5.72 |
14 |
6.04 |
| リアン |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
12 |
5.17 |
4 |
1.14 |
2 |
0.86 |
| 読子 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
7 |
3.02 |
| 田辺真紀 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
9 |
3.88 |
| ロベリア |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
14 |
6.04 |
| シエル先輩 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
7 |
3.02 |
(3)第三期:第53回(97年冬)〜
この間、眼鏡っ娘は着実な成長を遂げる。その中でも注目されるのは、主要なゲーム系の眼鏡っ娘キャラクターが複数登場し、絶大な人気を誇ったことである。ゲーム系眼鏡っ娘の人気が全体の趨勢を押し上げたのは間違いない。97年〜98年にかけては紅蘭と委員長が眼鏡勢力を牽引し、99年以降は由宇と南さんの活躍が目立っている。その間の事情は表2に表した。左側の数字は総登場数で、右側は登場数を総サークル数で割ってから1万を掛けたポイントである。ポイント数を出すのは実質的な登場率が算出できるからである。由宇は第59回から第60回にかけて16→23と勢力を伸ばしているように見えるが、ポイント数で見ると6.89→6.57となっており、実質的にはほとんど変化がない。委員長は59回から60回にかけて登場数が23→22とほとんど変わっていないように見えるが、ポイント数では9.91→6.29となり、勢力をわずかに下げていることが解る。
さて、表2に注目してみると、爆発的なキャラクター登場率を誇る点が3つある。第48回(95年夏)の鳳凰寺風、第53回(97年冬)の姫宮アンシー、第57回(99年冬)の藤原はづきである。表では青色を付けておいた。ポイントにして10を超えているのは、この3回のみである。そして気がつくのは、この3例がいずれもアニメーション作品に関わっていることである。そして悲しいことではあるが、爆発的な登場率を誇った後、その勢力が急速にしぼむこともアニメ系の特徴である。残念ながらアニメ系の眼鏡っ娘人気は一過性のものと言えるかもしれない。全体のグラフで何ヶ所か突出している部分があるが、第48回と第53回が突出している理由はアニメ系眼鏡っ娘の一時的爆発ブームによって説明することができるだろう。
逆に注目されるのはゲーム系眼鏡っ娘の息の長さである。爆発的な大ブレイクは起こらないが、たいへん息が長い。その絶好例が『ときめきメモリアル』の如月未緒である。如月さんは第50回(96年夏)から第60回(01年夏)まで、実に五年もの長期にわたってサークルカットに登場し続けている。今後もこの人気を維持してほしいものである。息が長いという傾向は他のゲーム系眼鏡っ娘にも見ることができる。委員長はコンスタントに高いポイントをはじき出しており、さらに由宇、南さんは1年半の間ほぼ同じ水準で支持を得ている。この特徴はアニメとゲームのメディア特性の違いとして注目されるかもしれない。アニメは影響力が強いが賞味期限が短い。ゲームは影響の範囲が狭いが息が長い。眼鏡っ娘データからこのような仮説が立てられる。ゲーム系は一度ファンが付いたら減りにくいから、ゲーム系眼鏡っ娘が増えるたびに、眼鏡っ娘全体のエネルギーが累積して増えていく。第三期において眼鏡っ娘勢力がコンスタントに増加しているのは、ゲーム系眼鏡っ娘の活躍に負うところが非常に大きいだろう。
もう一つ目立つのは、ネコミミの眼鏡(略称メガネコ)や眼鏡をかけたメイドさんなど、他ジャンルとの接続が著しいことである。眼鏡が他の属性と相性のいいことが自覚されてきていることを意味する。
またこの時期には眼鏡島が目に見える形で形成されてきており、眼鏡っ娘という概念が一般に認知されつつあることが見て取れる。第58回(00年夏)には23サークル、第59回(00年冬)には22サークルが眼鏡島として一箇所に集中しており、一大勢力として認知されたことを物語っている。しかしながら第60回(01年夏)には眼鏡勢力は分断され、眼鏡島と呼べる地域には9サークルしか集中していない。ところどころに3〜4つの眼鏡っ娘系サークルが固まっている地域があるものの、勢力としてはネコミミやメイドさんより目立たない状況になってしまっている。実数では第58回(00年夏)よりも第60回(01年夏)のほうが眼鏡勢力は拡大しているにも関わらず、眼鏡島は半分以下に縮小してしまっているのである。これは由々しき事態である。勢力自体が減少したわけではないのに、配置に対する配慮がない場合、眼鏡勢力が衰退したかのような印象を与える。コミケのスタッフに対して、眼鏡勢力を印象づけるような活動を続けていかねばならないだろう。
- 補足:第60回(01年夏)における減少について
第59回において大躍進を遂げた眼鏡っ娘勢力が、第60回で減少していることは気になる現象である。減少したといってもその水準は前々回の第58回よりも上まっているのだが、それでも減少傾向は気になるところである。その事情について多少の考察を加えておこう。
先にゲーム系眼鏡っ娘の人気は息が長いと指摘しておいたが、それでも通常の例では発表当初に最も勢いがあるのは表2のデータから明らかである(委員長は興味ある例外)。その意味で、第59回に大躍進を遂げているのは、新しいゲーム系眼鏡っ娘がこの時期に複数登場しているからと言える。逆に第60回では新しい目立ったゲーム系眼鏡っ娘は登場してきておらず、それが全体の減少傾向に結びついたと推測される。
油断せずに新たな眼鏡っ娘が登場し続けることが、眼鏡っ娘勢力全体の拡大に着実に結びつくと言えよう。
- 補足2:第61回(01年冬)にけおる躍進
第60回で漸減傾向を見せて心配された眼鏡っ娘勢力であったが、第61回では勢力を盛り返し、史上最高値を更新した。その要因として、既存眼鏡っ娘の奮闘と新進気鋭眼鏡っ娘の躍進の2つの理由が挙げられる。
既存眼鏡っ娘の活躍では、Leaf眼鏡っ娘の獅子奮迅ぶりが目覚ましい。委員長、由宇、南さんは、前回よりも勢力を伸ばしている。なかでも由宇はゲーム系眼鏡っ娘では初めてポイント数で10を超える勢いを見せるなど、その躍進ぶりには目を見張るものがある。実に頼もしい。由宇と比較して南さんが少ないのは、眼鏡を外した南さんのカットがいくつかあるからである。たいへん勿体ないので、南さんを描く場合はぜひ眼鏡をかけてほしい。
新進気鋭の眼鏡っ娘で目立ったのは、読子(R.O.D.)、ロベリア(サクラ大戦3)、真紀(ガンパレードマーチ)、シエル先輩(月姫)の4人である。今後も彼女たちの活躍から目を離せない。
■メガネ君の趨勢
(1)第一期:〜第36回(89年夏)
この間、メガネ君はそれほど目立った存在ではない。コミケでは聖闘士星矢とキャプテン翼が猛威をふるっており、そこにメガネ君がまったく出てこないことがその原因といえるだろう。そのなかで注目されるのは、メガネ君のほとんどが芸能系に出現していることである。たとえば第32回(87年夏)では、メガネ君総数58人のうち、なんとアルフィーで23人を占める。率にして約40%である。他にもCCBのリュウくんなど、芸能系にメガネ君は多い。この傾向は第35回(89年春)まで変わらない。
(2)第二期:第39回(90年冬)〜第47回(94年冬)
この期間、メガネ君勢力は凄まじい勢いで上昇する。四年という短期間で、実数にして約三倍、率にして約二倍に成長している。その拡大を支えたのは、段階的に優秀なメガネ君を擁する作品が発表されたことに拠る。
第39回(90年冬)で目立ったのは『機動警察パトレイバー』のシャフトの二人、課長と黒崎である。この二人は作品自体が終わった後も根強い人気を保ち、メガネ君勢力の一角を支えることとなる。
第41回(91年冬)では『ファイバード』の火鳥さんが目立っているが、ここに恐るべき大爆発の芽が包蔵されていた。それが『サイバーフォーミュラ』におけるグー×ハー革命である。第41回にはまだ1カットしか存在しなかったメガネ君のハイネルが、第42回(92年夏)には21カット、第43回(92年冬)にはなんと103カット(メガネ無しのカットを除外してもこの数)に爆発する。何が乙女たちをそうさせたのか。
そして第44(93年夏)でハイネルは109カットと勢いはまったく衰えていないが、その最中にさらに二段階革命が用意されていた。それが三×暮革命である。『スラムダンク』の三井と木暮のカップリングは、よしながふみなどの御大によって描かれて一大ジャンルとなるが、第44回においてすでに木暮カットが15存在している。そして第45回(93年冬)には木暮カットは35に増え、そのなかには「メガネくん」という単語も登場するようになる。ここに至り、メガネ君は一つのジャンルとして認知されたと言っていいだろう。
(3)第三期:第48回(95年夏)〜
第46回(94年夏)には木暮は38カット、ハイネルも64カットと、まったく人気は収束していない。ただ、メガネ君勢力の中身は徐々に交替していく。目立つところでは『め組の大吾』の甘粕、『富士見二丁目交響楽団』、『名探偵コナン』、『金田一少年の事件簿』の明智、『ジャスティス学園』が大きな勢力を誇る。最新の第60回(01年夏)では『ハリーポッター』が目立ち始めている。
が、中身が交替していくとはいえ、全体としてはほぼ一定の水準を保っている。これが神の見えざる手のなす技なのかどうか、興味深いところである。
■まとめ
以上、眼鏡勢力の歴史的な拡大過程を見てきた。最後に展望を示してこの論考を締めくくりたい。
ひとつは、眼鏡勢力が増大しつつあることは明らかであるとはいえ、長い目で見れば助走の段階に過ぎないということである。眼鏡っ娘率が1.5%、メガネ君比率が2.5%ということは、たとえば学校の40人学級を考えてみた場合、その中に眼鏡っ娘が0.6人、メガネ君が1人しかいないということである。これは現実を考えてみた場合、明らかに少なすぎる。眼鏡勢力は拡大しつつあるとはいえ、その水準はまだまだ低いことを自覚しておく必要がある。
ふたつめは、集中しつつ分散するという、相反する勢力増大の過程である。集中という面では、眼鏡島の形成が象徴的である。「眼鏡っ娘」という概念が次第にまとまるにつれ、眼鏡系サークルが一カ所に集中する現象が現れ始める。これは眼鏡っ娘勢力の存在自体を明示する機能を果たしている。眼鏡勢力のために集中的拡大は重要な要素である。
いっぽう分散とは、それぞれのアニメやゲーム系のまとまりのなかに眼鏡っ娘が増大している現象である。眼鏡っ娘というまとまりで一カ所に集中しなくとも、様々なジャンルに眼鏡っ娘が現れるのは大変重要なことである。
分散は、大まかに属性系と二次創作系に分けられる。属性系とは、メイドさんが眼鏡をかけたり、ネコミミが眼鏡をかけたりする系列である。属性の組み合わせは90年代半ば以降に増加しつつあるが、眼鏡がどの属性とも相性がいいことは今後とも強調していく必要がある。メイン属性でメイドさんやネコミミや制服を扱っているサークルにも、ぜひサブ属性として眼鏡を意識してもらいたいものである。三人キャラクターがいたら、少なくともそのうち一人は眼鏡をかけるという配慮をしてもらいたい。他属性における眼鏡勢力の拡大は、翻って眼鏡勢力の集中拡大にも好影響を与えるだろう。
二次創作系はさらにアニメ系とゲーム系に分けられる。アニメ系は影響範囲が広いが短い、ゲーム系は影響範囲が狭いが長いという特徴がある。むろんどちらかに優劣があるわけではなく、双方ともに重視していく必要がある。影響範囲が広いアニメ系は、眼鏡という属性が存在することを大勢にアピールする機会となる。この機会に魂のなかの眼鏡要素が目覚める人々もいるだろう。ゲーム系は息が長いために、長期的な眼鏡勢力拡大にとって重要な要素となる。眼鏡の魅力を長期間にわたってアピールすることは、たいへん重要なことである。もちろんアニメ系にもカッツェのカットを描き続けているサークルが存在するなど、息の長い愛情が存在する。
集中しすぎると他領域からのエネルギー流入路を失って勢力拡大のための活力を失うだろう。逆に分散しすぎると、エネルギーの核を失って勢力の維持が困難となる。90年代半ば以降は集中と分散のバランスが大変よく、それがコンスタントな眼鏡っ娘勢力の拡大に繋がっていると思われる。翻って考えてみると、メガネ君勢力はもっぱら各作品におけるメガネ君の勢力に拠っており、集中的勢力がまったく形成されていない。90年代半ば以降の頭打ち傾向はこの中核の不在による現象かもしれない。
今後もこの集中と分散のバランスをとりつつ、眼鏡勢力が続伸することが期待される。
■補足
コミケカタログから眼鏡っ娘とメガネ君をカウントするとき、いくつかの問題が存在する。まず、眼鏡をかけているキャラクターの中に、絵だけでは男か女か判然としないものがかなり多いことである。文脈から判断できる場合は問題ないが、まったく判断の材料がないケースも相当残る。この場合は、筆者の主観的判断によって分類した。また問題なのは、「健全女装本」と明記してあるサークルのカットに描かれた眼鏡キャラクターを、男にするか女にするかというケースである。さらに、北斗の拳の絵柄でセーラームーンを描き、そこに眼鏡が描き加えられているというケースは判断に苦しむ。これらは敢えて眼鏡っ娘にもメガネ君にも加えなかった。
また眼鏡の形状だが、鼻眼鏡および片眼鏡(最遊記の八戒など)は眼鏡に含めたが、サングラスは眼鏡に含めなかった。
サークル総数は、カタログ冒頭の五十音順サークルリストから算出した。
(本論は2001年8/12夏コミにおいて発表した論文の一部を改訂したものである。8/16補足を修正。12/19新データを反映。)
本論に対し、Dr.キッチュ氏から有益なデータと見解が寄せられた。氏の快諾を得られたので、以下に引用する。(2001.8.16)
以下、Dr.キッチュ氏のメールから転載。
| 年 |
回 |
サークル数 |
眼鏡ッ娘 |
眼鏡ッ娘比率 |
メガネ君 |
メガネ君比率 |
| '83夏 |
24 |
1459 |
7 |
0.48% |
58 |
3.98% |
| '83冬 |
25 |
1534 |
3 |
0.20% |
53 |
3.44% |
| '84夏 |
26 |
2412 |
8 |
0.33% |
52 |
2.16% |
| '84冬 |
27 |
2166 |
11 |
0.51% |
34 |
1.57% |
| '85夏 |
28 |
3405 |
11 |
0.32% |
78 |
2.29% |
| '85冬 |
29 |
3959 |
14 |
0.35% |
102 |
2.58% |
| '86夏 |
30 |
3839 |
12 |
0.31% |
92 |
2.40% |
| '86冬 |
31 |
4455 |
8 |
0.18% |
94 |
2.11% |
ここで、#24あたりでメガネ君比率が高いのは、アクロバンチとエリア88のFCの影響です。マクロスのマクシミリアンは意外と振るいません。その後、#29,30で増加するのは、ミュージシャン系FCによるもので、アルフィーと大江千里FCの影響です。
眼鏡ッ娘の方は、地味に推移してますが、特筆すべきは#25に、オーガスのリーア(?)のカットがあり、脇に「めがねっ娘だいすき」のキャプションが。これが、#24以降のカタログで確認した範囲では最古の「眼鏡ッ娘」というコピーです。その後、#26以降「めがねっ娘編集部」というサークルが参加しています。ところが、#28以降、サークルはL・GAIMに転んだらしく、サークルカットから眼鏡ッ娘は消えています。
メガネ君を絵を描く立場から考えると、キャラの手抜きをする場合と、主人公とは違うんだという立場を明確にするためにメガネをかけさせるということがあります。
特に、手抜きは大学マン研系統のマンガによく見られるようで、たいていキャラはマン研関係者。この手のキャラは手足のディテールも無い事が多く、全体的に昔の小山田いくのキャラの感じになります。よくもまぁ、これだけ面識も関係もない人の間で、似たようなメガネ君を描くものだと思ったことがあります。
眼鏡ッ娘を描く場合、作者の自画像など手抜きのためのキャラには、メガネ君の手抜きの雰囲気がそのままあてはまります。そうでない場合は、明確にメガネがキャラの属性として描かれることになります。
多分心理的には、「何か心の内面を守ろうとするバリアの一種」としての役割がありそうです。よく、「メガネを外したら美人だった」というカタルシスを演出するために使われることもありますが、それは「メガネに守られている、何か繊細で弱々しいもの」がキャラに具わっているという暗喩かもしれません。
あとは、単純に「高学歴・高知性」を表す記号とか。これは私も良く使います。でも、上記のバリアという性質はつねに働くので、「知性はあるけど、その内面はじつは・・・」という展開もOKです。
こう考えると、ちょっと飛躍するかもしれませんが、眼鏡ッ娘は「記号化された処女性の新しい表現」とも考えられます。もはやセーラー服だけではちょっと貞淑な少女を演出できない・・・年齢だけでは、その性格を規定できないという社会になってきたので、メガネという心理的オプションをつけることで、その性格づけを読者の深層心理に訴えかけているのかも。(以上、私見です。)
眼鏡っ娘の発展過程に関する基礎作業(1)
−『ホットミルク』投稿イラストにおける眼鏡っ娘登場率(2001.7.4)
近年、眼鏡っ娘の勢力が拡大していることは、多くの人が感じている。しかし、それを示す客観的なデータは存在しない。そこで、眼鏡っ娘の勢力拡大を客観的なデータで示すために、当会ではいくつかの基礎資料を整備しつつある。本稿では、美少女マンガ雑誌である『ホットミルク』の投稿イラストにおいて眼鏡っ娘が占める割合を提示し、眼鏡っ娘勢力の拡大過程の一側面を明らかにしたい。
今回検討したのは1986年〜1998年の『ホットミルク』に掲載された投稿イラストである。いくつか資料に欠損があり完全なデータとはなっていないが、全体的な傾向を見る上では致命的な欠損ではないと思われる。投稿イラストは「早瀬たくみのうるうるしちゃった」や「HMM」、「乳居者募集」などいくつかの部門に分かれているが、特に区別せずに一括して計数した。以下、調査した結果を表とグラフに示す。
| 年 |
イラスト総数(A) |
眼鏡っ娘数(B) |
眼鏡っ娘率(B/A) |
備考 |
特記事項 |
| 1986 |
143 |
4 |
2.80% |
1〜5月欠 |
|
| 1987 |
673 |
8 |
1.19% |
|
9月に投稿カラーイラストできる |
| 1988 |
1335 |
74 |
5.54% |
|
8月のお題に「めがねの少女」 |
| 1989 |
1311 |
33 |
2.52% |
2月欠 |
|
| 1990 |
1115 |
15 |
1.35% |
1,2月欠 |
|
| 1991 |
1289 |
31 |
2.40% |
|
|
| 1992 |
1392 |
25 |
1.80% |
|
|
| 1993 |
1889 |
45 |
2.38% |
|
6月にTyr.013眼鏡デビュー |
| 1994 |
1986 |
54 |
2.72% |
4月欠 |
|
| 1995 |
1550 |
43 |
2.77% |
1,2,4,6月欠 |
|
| 1996 |
2151 |
63 |
2.93% |
|
|
| 1997 |
1146 |
120 |
10.47% |
1〜6欠 |
はいぼくイラストも掲載。 |
| 1998 |
1993 |
257 |
12.90% |
4欠 |
3月にB5版に変わる |
このデータから読みとれることは2点ある。ひとつは1988年にひとつの山があること。ふたつめに、1997年に大躍進を遂げているところである。
(1)1988年の山
この年の眼鏡っ娘が大躍進を遂げた理由として、投稿コーナーのイラストのお題として「めがねの少女」が掲げられたことが挙げられるだろう。1988年7月号において、「めがねをかけた少女、実は眼鏡をはずすとすっごくかわいい」という題が提出された。そして集まったイラストはお題に反し、「かわいい娘は眼鏡をかけていてもかわいい」という主張を含む作品が多かった。お題自体は守旧的だったが、投稿者の意識は編集より先んじていたということである。ここに眼鏡っ娘の魅力が一部に確実に認知されていたことが確認される。
この年でさらに注目されるのは、10月の「早瀬たくみのうるうるしちゃった」のコーナーでも眼鏡っ娘がお題として掲げられたことである。9月の募集要項においては「メガネの女の子好き?!」というタイトルが示されている。投稿コーナーの7月号の守旧的な募集要項と比較し、断然前進したことが解る。さらに興味深いのは、この10月の「うるうる」において、「メガネっ娘」という単語が2例、「めがねっ娘」という単語が2例、あわせて4例が確認されたことである。(8月の投稿コーナーではこの単語は登場していなかった)。この1988年という段階で、かなり広い範囲に眼鏡っ娘の魅力が広がっていたことが解る格好の事例である。
また1988年という年が注目されるのは、この年に『ホットミルク』本誌に眼鏡っ娘マンガの佳作、田沼雄一郎『少女エゴエゴ魔法屋稼業』が掲載されていることである。9月号でも銀仮面が眼鏡っ娘マンガ『何だかTWO
IN ONE』でデビューしている。この勢いは翌年まで続き、1989年1月号には、るりあ046『ファントムシューターIO』、3月号には田沼『続エゴエゴ』、そして6月号においては眼鏡っ娘マンガが巻頭から3連発で掲載される(魔北葵『MAKING』、新貝田鉄野郎『調教師びんびん物語』、泉拓樹『OL戦記悶絶変』)。これらの作品が眼鏡っ娘躍進のための基底条件となっていることは間違いないだろう。
(2)1997年の躍進
1988年以降、眼鏡っ娘勢力は一進一退を繰り返しつつもゆるやかに上昇する傾向を見せていたが、その勢いが爆発したのが1997年である。その理由として、やはり「乳居者募集」を担当したさるまわし氏の努力により、眼鏡っ娘ページ「GLASS
AGE」が成立したことが最も大きいといえる。しかし、それは一人の力で成り立ったのではなく、それ以前のエネルギーの蓄積により可能になったことは言うまでもない。そこで、1997年の爆発的躍進を可能にした『ホットミルク』の特殊条件を示しておこう。
(3)ホットミルクの条件
まず、名物編集者O子氏の存在を挙げねばなるまい。1980年代後半の眼鏡っ娘イラストの多くは、O子氏の似顔絵であった。そしてそこで躍進したのが銀仮面である。銀仮面はO子氏のイラストで眼鏡っ娘イラストを量産する一方、オリジナルイラストでも眼鏡っ娘を描き続けたうえ、ついに1988年9月号では眼鏡っ娘マンガでデビューする。彼の活躍が1988年の躍進の基礎条件となっていることは間違いない。
その後、『ホットミルク』は田沼雄一郎、魔北葵、天竺浪人など、眼鏡っ娘を好んで描く作家を輩出する。一方、投稿イラストコーナーでも眼鏡っ娘を重点的に描く人々が現れる。そのなかでもTyr.013氏(1995年にたいれるむつわと改称し、現在も活躍中)の獅子奮迅ぶりは特記されるべきであろう。1993年6月号に初登場して以降1996年まで、実に15枚もの眼鏡っ娘イラストが掲載されている。他にましたか氏など同志の活躍により、90年代前半の眼鏡っ娘勢力の維持が可能となった。この活動が1997年の爆発的拡大へ繋がることとなるのである。
結論:以上、『ホットミルク』における眼鏡っ娘の発展過程を検討した。1988年に「メガネっ娘」という単語が一般的に使用されていたことが確認された他、着実な発展過程を跡づけるデータが得られた。ただし、このデータは『ホットミルク』という条件に規定されたものであり、そのまま単純に全体的な趨勢の代表と見なすことはできない。そこで、比較の対象となるいくつかのデータを平行して確認する必要がある。今後、他雑誌の同様なデータを収集する作業が要求されるほか、異なる指標を模索していく必要もあるだろう。
(2001.7.9 固有名詞の誤りなど一部修正)
概念と推論-『屈折リーベ』を読む(2001.4.16)
■コンセプト、つまり「概念」とは何か
哲学者の東浩紀は、ここで「眼鏡っ娘はコンセプトだ」と説明している。これは一面の真理を含んでいるが、真理の全てではないように思われる。結論から言えば、「眼鏡っ娘はコンセプトだ」という考え方を否定してみせたのが西川魯介『屈折リーベ』である。この問題は深入りするとかなりヤバいものだが、敢えて踏み込んでみよう。
「コンセプト」とは"concept"、日本語で言うと「概念」である。「概念」と「観念」の違いは日常生活ではそれほど意識されていないので、まずはその違いを明らかにしておく。「観念」とは、人間の五感を通じて心理に入ってくるものである。ロック以来のイギリス経験論においては、人間は外界に存在する物をそのまま認識することはできないとされる。必ず五感というフィルターを通じて心に取り入れねばならないが、この五感を通じて取り入れたものは「物自体」ではない。「物自体」とは必ずしも一致しない心に取り入れた印象のことを「観念」と言う。この観念は、そのまま存在するだけでは単にバラバラな印象に過ぎない。同じような観念を何度も繰り返して経験するうちに、人間は同じようなものをまとめて「同じ物だ」と認識するようになる。この作用を「概括」と呼ぶ。例えば最初は単に丸くて赤くて甘酸っぱいものだったものを、何度も繰り返して経験・学習するうちに「リンゴだ!」と認識するようになる。こうして概括されて命名された一般名詞を「概念」と呼ぶ。つまり、概念とは単に五感で経験したものではなく、反復して経験され、概括作用によって一般名詞となったもののことである。
ところで、なぜ我々は赤くて丸くて甘酸っぱいもの全てを「リンゴだ!」と認識できるのだろうか。赤ん坊は、しばしば認識に失敗する。たとえば、丸くて甘酸っぱいが黄色いものを「リンゴだ!」と言ったりするが、親から「それはミカンだ」と修正される。それを繰り返すうち、リンゴもミカンも認識できるようになる。ところで、では、初めて「リンゴ」を認識したのは誰なのだろう。初めて「リンゴ」を認識した人間は、親から学習する機会を持たない。彼は、どのように「リンゴ」を概括し、概念としたのか。
この問いに対する解答は、おおまかに2通りある。ひとつはイギリスに代表される「経験論」と呼ばれるもので、存在するのは徹頭徹尾「個物」だけであり、経験の大量の反復が「概念」と呼ばれる作用を生じるという考え方である。人々が使用している概念は単に「習慣」によってそう呼ばれているだけであって、実際に「リンゴ」と呼ばれるものが存在するわけではない。存在するのは目の前にある赤くて丸くて甘酸っぱい果物であって、それを「リンゴ」と呼ぶのは単に「習慣」によるのであり、その「習慣」を形成するのが大量の反復経験だというわけだ。ちなみに「赤い」とか「丸い」とか「甘酸っぱい」とか「果物」という概念も「習慣」によって形成されたものである。人間は「習慣」から、つまり「経験」から脱出することはできないというわけだ。
経験論に対抗する考え方が、ヨーロッパ大陸に代表される「合理論」と呼ばれるものである。合理論によれば、人間には生得的に概括能力が備わっている。理性を正しく運用すれば、正確に概括を行えるという考え方である。そのために、人間の心理には生得的に「概念の素」みたいなものが備わっていて、それを正確に発展させれば万物を正確に認識できるという考え方である。これはプラトンの「イデア論」以来の発想である。プラトンに拠れば、現実界に存在する「リンゴ」は、イデア界に存在する「リンゴのイデア」を分有しているから「リンゴ」だと認識できる。プラトンに拠れば、我々の魂は現世に現れる前にイデア界で既に「リンゴのイデア」を見ており、現実界でリンゴを「リンゴ」だと認識できるのは、イデア界で見た「リンゴのイデア」を想起(アナムネーシス)するからである。人は通常の状態ではイデアそのものを見ることはできないが、イデアを分有した個物を見てイデアを想起することはできるというわけだ。
この「イデア」と「分有」という発想はあまりにも古くさいと思われるかもしれないが、ヨーロッパをダーウィンの進化論が登場する19世紀後半まで支配し続けた。ダーウィン登場以前の自然史(natural
history)では、「種」を極めることが目的とされていた。「種」とは、万物が創世されるときに神がデザインしたものであり、それは古今不変のものと考えられていた。だから、人間が理性を正しく運用すれば世界に存在するありとあらゆる「種」を窮め尽くすことができ、それが神への奉仕だと考えられたのである。そして「種の不変」という発想はヨーロッパでは"identity"という語で呼ばれ、それは論理学で最も重要な自同律が"low
of identity"と呼ばれているように、世界観の最も根底にあるものだった。ダーウィンの進化論が衝撃的だったのは、それが生物学だけではなく論理学を含めたヨーロッパの知の基盤全てを揺るがしたからである。そして「種」="species"、神のデザイン="design"(下に書かれた物という意味)、キャラクター="character"(刻印という意味)、"identity"などの発想は、21世紀の現在でも生き続けている。
■帰納・演繹という推論形式
さて、相変わらず長い前置きだったが、本題である。我々は、なぜ眼鏡っ娘を眼鏡っ娘だと認識できるのか。諸外国にも眼鏡をかけた女性は存在するのに、外国で彼女たちを「眼鏡っ娘」という形で概括している様子は見られない。眼鏡をかけた女性を見たときに我々が「あ、眼鏡っ娘!」と認識するのは、もともと我々が「眼鏡っ娘」という概念を知っているからである。眼鏡をかけた女性を何千人見たとしても、そこから「眼鏡っ娘」という概念は発生しない。つまり、あらかじめ「眼鏡っ娘」という概念を持っている者だけが、眼鏡をかけた女性を見たときに「あ、眼鏡っ娘!」と反応できるというわけだ。
これが「概念、先にありき」という状態である。「眼鏡っ娘」という概念を先に学習し、その後に眼鏡をかけた女性一般を「眼鏡っ娘」という概念で認識するわけだ。その逆が、眼鏡をかけた女性一般を大量に見て、そこから「眼鏡っ娘」という概念を成立させるという態度である。好きになる女性が全て眼鏡をかけていることに気づいたり、眼鏡の女性でしか反応できなかったりする経験が反復されると「眼鏡の女性」を概括する機運が生じる。ここで注意しなければならないのは、論理的には「好きになる女性が全て眼鏡をかけている」としても「眼鏡をかけた女性なら全て好きになる」とは限らないということだ。「眼鏡の女性でしか反応できない」としても「眼鏡の女性なら必ず反応する」とは限らないのである。ここで、全称命題と部分命題の区別をしっかりしないといけないのだが、興味深いことは、いったん「眼鏡っ娘」という概念に辿り着いた者の多くが「全ての眼鏡っ娘を愛する」ようになってしまうことである。私事で申し訳ないが、わしは小中高大と好きになった女性が全て眼鏡をかけていたことに気づいたとき「眼鏡っ娘」を概括した。ところがそれ以来、眼鏡をかけた全ての女性のことが気になってしょうがなくなりはじめたのである。ここに至って、「眼鏡っ娘はコンセプトである」という東の指摘が真実身を帯びる。概括作用によって概念=コンセプトが誕生したとき、それ以前の状態と明らかに異なる心的状態が訪れるのである。
概括作用が生むこの効果は、「帰納」と「演繹」の作用を考えると解りやすいかもしれない。「帰納」とは、個々の経験から普遍的法則を導き出す推論形式のことである。「帰納」は論理的には「概括」と厳密に区別されるものだが(概括は観念、帰納は推論に関する形式である)、認識の形式としては眼鏡をかけた個々の女性を見て「眼鏡っ娘」という一般名詞を引き出す概括作用と似ている。「演繹」とは、一般的な法則から個々の推論を引き出す形式である。たとえば、これまでに好きになった女性が全員眼鏡をかけていることに気がついたとき、「わしは眼鏡っ娘マニアだ!」と気がつくのは帰納的な推論である。一方、「わしは眼鏡っ娘マニアだ」という法則があったとき、「任意の眼鏡っ娘を見たら興奮するだろう」と考えるのが演繹推論である。
厳密に考えると、「これまでに好きになった女性が全員眼鏡をかけている」という命題が真であるとしても、だからといってその人物が「眼鏡っ娘マニア」であるとは限らない。なぜなら、「これまでに好きになった女性」の数などたかが知れており、次に好きになる女性は眼鏡っ娘じゃないかも知れないからだ。帰納推論は有限回の経験から法則を導き出すが、その法則が無限に真であるとは限らない。その法則がn回目まで真だったとしても、n+1回目に真であるとは限らない。こういう理由で帰納推論一般を否定する論者が存在する。イギリス経験論の代表的哲学者ヒュームがその先駆けである。ところで帰納推論は「科学」と呼ばれるもの全ての基礎にある経験主義の基本的な発想であり、帰納推論を否定することは科学そのものを否定することである。だからポパーなどが帰納推論に代わる「反証可能性」などという発想を持ち出すことになる。この反証可能性とは、帰納推論から導出された一般命題は「反証」が登場するまで暫定的に真であると認めようというものだ。つまり、「これまでに好きになった女性が全員眼鏡をかけている」という人がいた場合、彼が眼鏡っ娘ではない女性に興奮するという「反証」が登場しない限り、暫定的に彼のことを「眼鏡っ娘マニア」と認定しておこうという態度である。
しかし実は、この「反証可能性」という態度が落とし穴となる。本当は眼鏡っ娘マニアではなく単にこれまで好きになった女性が全て偶然に眼鏡っ娘であるという人物も、暫定的に全て眼鏡っ娘マニアになってしまう。ひどい場合には、これまでに好きになった女性がただ一人で、その女性がたまたま眼鏡っ娘だったという人も、この考え方で行くと眼鏡っ娘マニアとされてしまう。もちろん科学の領域で反証可能性という考え方が用いられる場合、充分な回数の実験が反復され、信頼度を上げる作業が行われる。しかし、ある人物が眼鏡っ娘マニアかどうかなど、実験できない。
ここまでくると、「眼鏡っ娘はコンセプトである」と単純に言うことが難しいと思われてくる。なぜなら、「眼鏡っ娘」は単に概括された「概念」ではなく、「これまでに好きになった女性が全て眼鏡をかけていたのだから、わしは眼鏡っ娘マニアなのだろう」という「推論」のなかで用いられる「述語」だからだ。単に「眼鏡っ娘」と一言で呼ぶときでも、背後にはこのような推論の過程が含まれているのである。もちろんこの推論形式の内部では、「眼鏡っ娘」は既に概括された概念として登場する。だから「眼鏡っ娘はコンセプトである」ということは推論の前提のように見えるかもしれない。が、注意すべきことは、その前提となる概念が、そもそも推論形式が記述される過程で初めて登場することである。帰納と演繹という推論を必要としない人は、そもそも「眼鏡っ娘」なる概念そのものを必要としないのである。現在の問題は、人は概括を行ってから推論を行うのではなく、推論を行う過程で概念を獲得するということである。要するに、そもそも「わしは眼鏡をかけた女性のことが好きなのだろうか?」という問題意識が発生しない限り「眼鏡っ娘」を概括する契機が生じないということが、もっとも重要なポイントなのだ。推論への意志が生じたとき、はじめて概括への機運が生まれる。そして概念の定着と推論の定立は、同時に完了することにも注意せねばならない。
■屈折リーベはどこに辿り着いたのか
さて、西川魯介『屈折リーベ』である。主人公の秋保少年は、眼鏡っ娘マニアである。が、彼が眼鏡っ娘マニアになった過程が興味深い。というか、そもそも秋保が眼鏡っ娘マニアになった過程そのものは描かれておらず、眼鏡っ娘の中でも「ショートでスリム体形の胸はなし」が一番よいということを「実験」によって確認したという過程が描かれているだけである(単行本p.15)。これは作者の手落ちではなく、重要な哲学的な手続きを含んでいる。というのは、「眼鏡っ娘」という概念が既に概括されていることを暗示しているからである。如何にして眼鏡っ娘マニアになったかという過程の記述は、帰納推論の過程の記述であり、要するに概括の過程の記述となる。これは極度に省略されている。そして、『屈折リーベ』では帰納推論の過程は省かれているのにも関わらず、演繹推論は徹底的に描かれている。たとえば唐臼をふるとき、「メガネじゃないだろ」の一言ですませている(p.53)。これは唐臼という人格と向き合った上で出した結論ではなく、「自分は眼鏡っ娘マニアである」という一般法則から演繹的に導出した結論であって、人格を否定されたどころか全く存在しないかのごとく扱われた唐臼が怒るのもムリはない。そして、この様子を見た篠奈先輩が不安になるのも当然である(p.57)。自分が秋保少年に愛される理由は、単に一般法則から演繹された結論に依拠している。果たしてそれが「愛」と呼ぶ資格のあるものかどうか、迷うのも当然である。篠奈先輩が「なんと脆弱な基盤の上に関係が成り立っていることか!」(p.93)と嘆くのも、秋保が眼鏡っ娘マニアであることの帰納推論の過程が明らかにされていないからであり、しかも「秋保は眼鏡っ娘マニア」という命題が帰納推論である限りn+1回目には破綻する可能性があるからである。n+1回目に破綻が訪れないという信念は、帰納推論の根拠を示されて初めて可能になる。いくら演繹推論を繰り返されても、信用に足らない。演繹推論だけを示す宗教よりも、根拠を伴った帰納推論という基盤に成り立っている科学の方に説得力があるのと同じことである。演繹推論に頼り切った矛盾は、秋保少年自身にも跳ね返る。秋保少年はその矛盾を「篠奈先パイがメガネであることを享受するのが正しい道だ!」(p.137)と断ち切ろうとするが、これも「自分は眼鏡っ娘マニアである」という一般法則から導出した演繹推論である。ポパーの反証可能性に拠って、秋保はここで「自分は眼鏡っ娘マニアではないかもしれない」という反証可能性にも気がついてよかった。迷いが生じた時点が、n回までは正しかった帰納推論がn+1回目に崩れる瞬間だったかもしれないからである。しかし秋保少年は、その可能性に気がつくことを恐れるあまり、一般法則にいっそう寄りかかった。ここで秋保が帰納推論を放棄して演繹推論にすがったことは、科学を放棄し、ドグマに陥ったことを意味している。しかし篠奈先輩は次のように秋保少年に言い放ち、演繹推論の王国は崩壊する。「結局私じゃなくて「眼鏡の女の子」が好きなんだろ」(p.149)。これは演繹推論を支えた「概念」というものの限界を如実に示した言葉である。「眼鏡の女の子」という概念が、いったいどのように「私のことが好き」という推論と結びつくかということが問われているのである。篠奈先輩は、それが単に演繹推論で結ばれていることに深く苛立っている。ここで、秋保少年が眼鏡っ娘マニアになった帰納推論の過程が省かれていることが、非常に大きな意味を持ってくる。この事態は社会学者の大澤真幸が「恋愛の不可能性」と呼んだ事態に相当するので、検討してみよう。
大澤は恋愛は不可能だという。例えば「篠奈先輩が好きだ!」と言ったとしよう。しかし、「私のどこが好きだ?」と聞かれると、返事に窮するしかない。なぜなら、「眼鏡が好きだ」といえば「眼鏡の女の子は他にもいる」と言われるし、「頭がいいから」と言えば「頭がいい女の子は他にもいる」と言われ、「○○がいいから」と言えば「○○な女の子は他にもいる」と言われてしまう。つまり、何かその個体を特権的に好きである理由は、説明不可能なのである。これが「概念」に対する愛であれば説明は簡単である。なぜなら、「リンゴが好きだ」と言ったとき、「甘酸っぱい」とか「歯触りがいい」というふうにリンゴの「属性」を列挙すればよい。「リンゴを好きだ」と言うときは、それが備えている属性が好きだと言えば十分であり、それでn+1個目のリンゴも同様に好きであることが演繹的に推論される。概念を相手にするときは、これでよい。が、「固有名詞」を好きであるというとき、その固有名詞が備えている属性を列挙しても意味をなさない。なぜならその属性は他の固有名詞も備えていることがあるからである。つまり、その固有名詞の特別性は、いくら属性を並べ立てても証明することができない。眼鏡、ペチャパイ、三つ編み・・・・などと属性を何十個と列挙したところで、それに該当する個体が1つであるとは限らない。こういうわけで、ある固有名をもつものを好きであることを言語によって証明することは不可能なのである。「眼鏡っ娘を好きだ!」と主張することは可能である。なぜなら「眼鏡っ娘」は概念であり、概念である以上その属性を並べ立てることで愛の説明が可能だからだ。しかし篠奈先輩そのものを何故好きなのかという説明は、言語では不可能である。可能だとしたら、「篠奈先輩が好きだから篠奈先輩が好きなのだ」と言うしかない。そしてこれは論理的な説明ではない。この事態を捕まえて大澤は「恋愛の不可能性」と呼んだ。これが「固有名詞=個物」と「一般名詞=概念」の大きな違いというわけである。
だから、秋保少年が幸せになるには、あることに気づくしかない。「「メガネだから好きになった」んじゃない!好きになった人が「たまたまメガネだった」だけなんだ!」(p.168)。一般名詞から固有名詞への大転回である。概念から個物への大転回である。「リンゴだから好きになったんじゃない!
好きになった食べ物がたまたまリンゴだっただけなんだ!」などという言葉は成立しないことに注意する必要がある。たまたま食べた食べ物を好きになって、それがリンゴだった場合、その人はおそらく別のリンゴを食べても好きになるだろう。リンゴは代替が効くが、篠奈先輩は代替が効かないということである。代替が効かないものが固有名詞であり、代替の効くものが一般名詞であり「概念」である。つまり「眼鏡っ娘はコンセプトである」と言ったとき、眼鏡っ娘という「概念」が代替可能だということを暗示している。そして実際、代替が可能である場合が多い。しかし、ある時に代替の効かない事態が生じる。秋保少年が直面したのは、固有名詞と一般名詞の間の矛盾である。代替不可能な固有名詞に遭遇したとき、概念は無意味となる。そしてこれは、中世スコラ学が直面していた「唯名論/実在論」の二項対立へと遡る矛盾であり、現在も哲学上の争点となっている問題である。そして我々は、常にこの矛盾へ遭遇する可能性に直面している。我々は眼鏡っ娘マニアを自覚する。しかしこれまで述べたように、「眼鏡っ娘」とはコンセプト=概念である。そしてそれは常にn+1回目には破綻する可能性を秘めている危うい反証可能性の基盤に成り立っているのであり、代替不可能な固有名詞に直面したときには秋保少年のように一瞬のうちに解決不可能な闇へと放り込まれる恐怖を伴った自覚作用なのである。
■我々に幸福は訪れるのか
さて、ここで危険水域に到達していることが自覚される。つまり、「眼鏡っ娘マニアなるものが成立するか否か?」という問題であり、そしてそれ以上に切実なのが「眼鏡っ娘マニアは幸福になり得るのか?」という問題である。後者の問題に対して、『屈折リーベ』は一つの解答を示した。つまり、「一般名詞」であり「概念」である「眼鏡っ娘」なるものに演繹的にこだわっていると、「固有名詞」であり「代替の効かないもの」と出会ったときに対応できないということである。「固有名詞」と遭遇したとき、演繹推論を放棄するべきだということであり、「概念への愛」を放棄するべきだということである。そしてこの結論は多くの文学作品でも提示されているところである。
では、眼鏡っ娘マニアは不幸になるしかないのだろうか。ここで今一度、冒頭で問題にしたプラトン「イデア論」を思い返してみる。「マニア」とは、古代ギリシア語で「狂気」を意味する言葉である。そして古代ギリシアの哲学者プラトンは『パイドロス』でこう言っている。「人間のなかで偉大なものというのは、狂気によってのみ生ずる」と。プラトンは「狂気」には2種類あると言い、そのうちの一つは「病気の狂気」であり、こちらは否定される。もうひとつは「神懸かりの狂気」であり、それは「神が己の中に人を捕らえる」という状態である。この「入神の境」は英語ではenthusiasmと呼ばれ、日本語では「恍惚」などと訳されている。そしてそれは、神の力量にとらわれた状態を意味し、そこで本来は神にしか見ることのできないイデアそのものを見ることができる状態のことである。「マニア」とは「イデアそのものを見る者」のことである。
では、「イデア」とは何か。日本語では「形相」と訳されている。プラトンは、自然物の「類」や「種」としての存在とイデアとの関係に言及し、肉体の目で見られる特徴や形態とは関係がなく「精神の目」で見るものがイデアだと言う。そしてそれはただの論理的概念というだけではなく、「精神が何とかして知りたいとあこがれる理想の極」でもある。そしてその理想の極みに達するには狂気、つまり「マニア」とならねばならない。こうしてみると、「眼鏡っ娘はコンセプトである」という表現には、敢えて反論せねばならないかもしれない。言い直せば、「眼鏡っ娘とはイデアであり、理想の極みに達しようとするのが眼鏡っ娘マニアである」と。そしてこれは「種」を極めようとしたダーウィン以前のnatural historyの心性と似ている。だからダーウィン進化論がヨーロッパ自然史に与えたインパクトを、眼鏡っ娘イデア論も正しく受けねばならないだろう。そしてここに危険水域の第2段階が始まるが、この克服は別の機会に述べることとしよう(糸口は、character、personality、identityといった概念の系譜学にありそうだ)。ここでは、『屈折リーベ』の示した道を、イデア論から整合的に理解する作業から始めよう。
ひとつの考え方は、イデア論では「形相/実質」の区別であり、朱子学では理・気二元論と呼ばれる考え方である。イデアは形相であり、デザインである。そこの実質が伴ったとき、具体的な個物となる。朱子学の理気二元論もだいたい似たような発想である。つまり、眼鏡っ娘という形相に実質を与えたものが現実態としての眼鏡っ娘である。この現実態としての眼鏡っ娘を愛することは、それを通じて形相としての眼鏡っ娘に具体的な力を与えるものである。アリストテレスは形相のことをイデアではなく「エイドス」と呼んだが、アリストテレスはエイドスを設計図のようなものと考えた。眼鏡っ娘の形相を極めるということはこの設計図にあたるものの理想を追求することであり、具体的な眼鏡っ娘を愛することは、この世に現れた存在としての作品を愛することである。具体的な作品は、必ずしも設計図通りとは限らない。しかしその具体的な作品を愛することは、設計図自体の否定とはならない。そもそも設計図だけあっても意味はなく、具体的な作品に結実して初めて有意味となる。この世に眼鏡っ娘が具現したことを、我々は感謝すべきである。そして秋保少年は、単なる設計図を超えて、眼鏡っ娘マニアとして具現した。『屈折リーベ』自体が、単なる設計図を超え、自らの実存を賭けて具現化された作品である。そしてそれは意志によって初めて成立する。そしてその意志とは、人の営みである。形相と実質を繋ぐものは「人の営み」であり、それを失ったときに理想は単なる設計図に終わり、具体物は魂を失う。だからこそ我々は『屈折リーベ』に感動し、同時に我々の存在意義があることも感得されるのである。
弁証法とダイナミズム(2001.4.14)
眼鏡っ娘の魅力の一つは、「真理」のダイナミックな表現にある。これは弁証法的に明らかである。哲学者の中村雄二郎は、弁証法を以下のように簡潔にまとめている。
「弁証法とは真理の自己完成の運動形式であり、まず事物は自己自身に即して(即自的に)あるが、やがてそれが必然的に自己自身の含む否定的要因によって自己自身に対立して(対自的に)あるもの、つまり他者となる。しかしそうはいっても、そのままにとどまるわけにはいかない。したがって、自己の分裂状態を完全な状態(即且対自)に達する。このような即自・対自・即且対自(正・反・合)の三段階の運動の積み重ねから全体的な真理があらわれるようになる」−中村雄二郎『述語集』p.174。
この中村の言葉は、乙女チック眼鏡っ娘ストーリーを簡潔に説明したものである。説明しよう。
「即自的」とは、眼鏡をかけた自分がそのままで存在する状態である。そして「めがねっこと主体性」で考察したように、眼鏡とは「見る意志」の顕れであり、主体的であることの証拠である。何かを見ようとする意志により眼鏡をかけることは、その個体が「主体的」であることを意味し、自らに即して存在することを表している。これを「即自的眼鏡っ娘」と呼ぶ。
ところが、あるとき即自的眼鏡っ娘は、自分が「見られる客体」であることを意識する。自分自身を「客体」として意識した、初めて眼鏡に対する疑問が湧いてくる。主体性を失ったとき、「見る意志」を表す眼鏡というアイテムは否定的要因となる。眼鏡は容貌に影響を与えるアイテムとして「見られる」ことを強烈に意識させるアイテムとなってしまう。このように自分を「客体」と意識したときに初めて「眼鏡を外す」という選択肢が登場する。中村が「他者となる」と言っているのは、自分を「客体」として扱ってしまう状態のことである。自分の体を自分自身の意志ではなく外部の評価で制御してしまうことは、「主体」としての私と「客体」としての私の分裂状態を生む。「見る主体としての私」と「見られる客体としての私」は不幸にも乖離し、「自己の分裂状態」に陥る。この否定的状態を「対自的眼鏡っ娘」と呼ぶ。
しかし、この分裂状態は最終的に一致する。見る主体としての私と見られる客体としての私の「総合」が可能になるのは「愛」を獲得したときである。客体としての自分が「即自的」に愛されることを発見したとき、主体と客体が一致し、完全な状態となる。これが「即且対自眼鏡っ娘」である。
即自的眼鏡っ娘→対自的眼鏡っ娘→即且対自眼鏡っ娘という「正・反・合」の弁証法サイクルは、「真実」を完成する動的過程である。この過程は、TINAMIX論文で詳述したように、乙女チック眼鏡っ娘が実現している。TINAMIXでは「起→承→転→結」というサイクルで説明したが、「起」が「即自」、「承」と「転」が「対自」、「結」が「即且対自」に対応している。「起→承→転→結」と弁証法の「正・反・合」というサイクルは根本的に同じものである。
スペインの哲学者オルテガが『自己同一と他者化現象』で表現している動的過程も、眼鏡っ娘ストーリーを説明したものである。オルテガは「自己疎外→自己耽溺→自己実現」という動的サイクルで「自我」というものを説明している。「自己疎外」とは、自分自身を自分の意志ではなく他人の意志によってコントロールしてしまう状態を意味している。つまり、本来なら視力矯正のために眼鏡をかけるべきなのに、周囲のいいかげんな評価に心を惑わされて眼鏡を外してしまう状態が「自己疎外」である。主体的な「見る」という態度を放棄し、他人の評価に隷属してしまうのである。
しかし、人間はこの隷属状態から脱出することができる。隷属状態から脱出して自分自身を内省する状態を「自己耽溺」と呼ぶ。オルテガはこれを人間だけに可能な態度だと言っている。つまり、他人の評価に左右されて眼鏡を外すという隷属的な態度に甘んじる者は、人間としての資格を自ら放棄した動物並ということである。人間は「自己耽溺」により、他人の評価から自由になる。
そして最終的に、人間は自己耽溺の内的世界から浮かび上がり、外の世界へ戻る。オルテガの言うところでは、「主役の資格で戻る。以前には持っていなかったところの自分自身を持って戻る」。
このサイクルが乙女チック眼鏡っ娘ストーリーと同値であることは明らかだろう。「眼鏡を外して美人」などとは、弁証法で言うと単に「反」であり、オルテガ言うところの「自己疎外」に止まっている未熟な状態にすぎない。「合」もしくは「自己実現」の状態に達しなければサイクルは完結しない。これを弁証法では「止揚」と呼んでいる。
眼鏡っ娘の魅力の一つは、こういった動的なサイクルにある。眼鏡っ娘の魅力が「物語」の中で倍増するのは、それが本来備えているダイナミズムを表現できるからである。眼鏡っ娘を単に静的なものとすることは、おそらく本来のダイナミズムを失わせ、魅力を半減させる。眼鏡っ娘の魅力を考えるとき、「物語」という時間軸による評価は避けて通れないだろう。
いっぽう、眼鏡っ娘は確かに止め絵でもかわいい。そして、その一枚絵の中にダイナミックな過程が表現されているとき、魅力は極大化する。眼鏡をつまむという仕草には弁証法的過程が包括的に含まれており、それ故に強烈なインパクトを我々に与えるのだ。本来動的なものを動的に表現することは、実はそれほど難しくないかもしれない。静的な一枚絵の中にダイナミズムを表現することは実に難しい。
2000年2月2日、17:25からフジテレビ「スーパーニュース」で、「白濁失明!コンタクトの死角…目を食う悪魔"アカントアメーバ"に警戒せよ」という特集が組まれた。コンタクトの危険性を訴えたものだ。いっぽうNHKでは21:30から、的確な取材で定評のある『クローズアップ現代』において「多発するコンタクトレンズ障害」という特集が組まれた。これも、コンタクトの危険性について注意を喚起したものだ。1999年中から朝日新聞などにコンタクトの危険性を訴える記事が掲載されてきたが、ここにきて一般的に認知されるに至ったといえるだろう。中には失明の危機の恐れもある重大なトラブルもあり、社会的な問題となりつつある。
トラブルの原因はいろいろあるが、その根本の原因は「人的」なものだ。コンタクト自身に問題があるというより、それを扱う人々の「モラル」に問題がある。処方・販売する人々が、あまりにもルーズなのだ。専門医が処方しなければならないのに、資格のない人が扱う。診療所は営利目的であってはいけないのに、ほとんどメーカー直営の状態で、消費者のことなどまったく考えない。売るときも、扱い方についての説明をしない。これによって、体に合わないコンタクトを処方される人が増え、トラブルが急増している。昨年中は、3,500件ものトラブルがあった。使い捨てコンタクトレンズを使用している人のうち、20%もの人がトラブルを抱えているという。危機感を抱いた日本眼科医会も注意を呼びかけている。
これらのトラブルは、重ねて言うが、コンタクト自身の問題ではない。それを扱う人々のモラルの問題である。モラルを改善すればトラブルは減っていくだろう。きちんとしたコンタクトレンズ屋なら、トラブルも起きない。だが、残念ながら、世の中にはモラルに欠ける販売業者が存在する。具体的にコンタクトに携わる人々のモラルが改善されるための方策も、示されていない。法律も改善されていない。ちゃんとしたコンタクトレンズを処方されるかどうか、消費者は運を天に任せるしかないのだ。これでは、安心してコンタクトレンズを買うことができない。
ここで、根本的な解決策を提示しておこう。
めがねをかけなさい。
「めがねをとったほうがいい」という言葉の男尊女卑主義的欺瞞性について考察しよう。まず、以下の論考までで、「精神」と「肉体」の二元論が成立するとき、めがねが「精神」を代表をしていることを主張してきた。めがね=自我なのである(このあたりはTINAMIXに掲載された「めがねのままのきみがすき」で展開した。特に連載第4回)。よって、めがねをはずすことは自我を喪失することであり、「肉体」が勝利することを意味する。「めがねをとったほうがいい」と言っているような男は、所詮は女のカラダだけが目当てなのだ。
そして、「認識」の面からも「めがねをとったほうがいい」という言説の欺瞞性を明らかにすることができる。フェミニズムの理論では、女性はずっと「見られる」立場に置かれてきたという。見る「主体性」を持っているのが男性だけだったというのである。そして、女性は男性の「視線」に曝され、常に「商品」として扱われてきたという。このように、「主体性」を女性に認めなかったことは、参政権にも如実にあらわれている。20世紀初頭は、先進諸国といえども女性に参政権が認められていなかった。要するに、女性は、子どもや身体障害者などと同様、「人間」と認められていなかったのである(「男」を意味する"man"は同時に「人間」を意味していることに注意)。[見る/見られる]という非対称性は、そのまま権力の源泉であった。見られる方は見られる対象("object"すなわち物体)として搾取される一方である。男性の「見る」まなざしが女性の人生を支配していたのである(ただし、見る「主体」としての意味である"subject"のもう一つの意味が「従属」であることには注意。近代のややこしさが顕れている)。
だが、近代の理論は普遍化を志向する。成人男性のみに参政権を認め「人間」としていた時代が過ぎ、ようやく女性も「人間」となった。近年では、身体障害者や子ども、外国人に対しても「人間」と認めつつある。近代のプラスの面が普遍化してきた証と言えよう。そして、[見る/見られる]という非対称性も解消されはじめた。その象徴がめがねである。
めがねは、言うまでもなく視力補正器具である。視力がいい人間と視力が悪い人間では、当然視力の良い人間の方が認識力に優り、それだけ権力に近い。めがねはその権力の偏在性を矯正するのに非常に有効だったのである。世界各国の科学者に「過去2,000年のうちで最も優秀な発明はなんだったか」という質問メールが配送されたが、その回答の中に「老眼鏡」があった。その理由は、「視力の良い世代に権力を握られることを阻止した」というものであった。これは、「老眼鏡」でなくとも、めがねにもあてはまる。
そして、めがねをかけるということは、「世界を認識しようとする意志」があることの証左である。世界を認識しなくても良いのならめがねなど必要ない。「見る」という欲求がめがねを欲求するのである。であるから反対に言えば、「めがねをはずせ」という要求は、「見る」ことを禁止することである。「見る」のはこちらだけでいい、おまえは「見られる」だけでいいという要求である。これは、せっかく認識の「主体」となった女性から権利を剥奪する所業である。ようやく「見る」立場に立った女性を、もとの「非人間」の立場に追いやろうとする身勝手な要求なのだ。
めがねは「見る」ことを保証する。そして、「見る」ことは認識の基本である。単に「見られる」立場においやられ、搾取され続けていた女性を、めがねは解放したのである。だからこそ、男尊女卑主義者は「めがねをはずせ」と主張するのだ。めがねをはずすことによって、女性の主体性を剥奪し、再び男尊女卑の時代に復古しようというのである。まさに身勝手。
めがねとは、「自我」の象徴であり、認識の「主体」として保証されていることの証である。自信を持って言うべきだ。「めがねをかけつづけよう」と。
(2000.12.17にTINAMIXへのリンク部分を追加修正)
角川書店『コンプティーク』1999年3月号(通巻193号)において、「美少女の哲学」なる連載が開始され、第1回がメガネっ娘となった。しかし、内容は貧弱である。いや、有害とすらいえるだろう。これは、ただ『コンプティーク』のせいとは断定できない側面があるのも確かである。ゲームという比較的歴史の浅いジャンルに、歴史の長いめがねっこをムリヤリ導入しようとしたこと自体にまだ無理があったのかもしれない。だが、誤謬は誤謬として訂正される必要がある。
一番の問題は、めがねっこファンを「男性上位論者」と言っているところであろう。ここは厳重に抗議する必要がある。この記事の論理を正確に理解するならば、ギャルゲーをプレイする人間は全て「男性上位論者」となる道理であって、めがねっこファンに限る必然性はまったくない。一般事例を何のことわりもなく部分事例に特殊化するという、記号論理としてごく初歩的な誤謬を犯しているのである。そもそも「鬼畜系」にネガ系キャラが多いのは、ことわるまでもない事実である。ネガ系キャラが多いから鬼畜系であり、鬼畜系だからネガ系キャラが多いのだ。トートロジーである。あたりまえだ。鬼畜系ギャルゲーにめがねっこがでてくるからといってめがねっこが「ネガ系キャラ」とするのは、鬼畜系ギャルゲーに黒髪のキャラが出てくるから黒髪のキャラは「ネガ系」であるとするのと同様、なんの根拠もない暴論である。しかもそこから「男性上位論者」という結論を導くにあたっては何をか言わんや。「心当たり」などあるはずがない。そして「心当たり」があるとしても、めがねっこをそれほど好きでない人も全員「心当たり」があるはずである。また、嗜虐性があることがすなわち「男
性上位主義」としているが、精神分析をちょっとでも囓ったことがある者ならそんなバカなことは言えない。「MEGANETH」に論文があるので参照してもらいたい。
また、「メガネを取ると美人になるのはナゼ?」という項目があり、「メガネは性格や美しさを隠すアイテム」と断言してしまっている。これは、ギャルゲーの分野がまだ未成熟ということもあり、しょうがない部分もある。しかし、少女マンガは、1972年の段階でとっくにそんなレベルを超えている。メガネに対してこの程度の認識にとどまるようではゲーム業界の未来は明るくない。そして、そのようなメガネ認識に対してなんの批判も加えることができないとは、あまりにも情けない。タイトルに「哲学」とあるが、その程度の認識にとどまるようでは、さっさと看板を下ろすべきである。「哲学」に失礼だ。
また「メガネっ娘はなぜ内気な娘が多いの?」という項も、創られたイメージに無批判に安易に依拠している。確かに、そのようなめがねっこがある程度いるのも確かである。しかし、少女マンガにおいては、1972年の段階でそんなレベルを超え、多様なめがねが描かれている。ゲーム制作者が安易なイメージに無批判に依拠していること自体が問題とされるべきなのであり、単にその現象を追認しているだけでは記事にする意味などない。私見では、このイメージは1978年頃形成されたのであって、たかだか20年程度の歴史しか持っていない。唾棄すべきイデオロギーなのだ。その創られたイデオロギー性を暴露し、相対化するのでなければ、思考としての意義はまったくない。
さらに問題なのは、香山リカまでもが30年以上前の古くさい理解にしか達していないことである。初頭に川柳が載っている。「委員長メガネをとったらカワイ子ちゃん」。これは明らかに誤りである。正しくは「委員長メガネをとったらただの人」となるべきところである。メガネだから委員長なのであって、その逆ではない。メガネを取ったら単なるヒトである。しかも、めがねを「心理的バリア」としてのみ把握しているのは、精神分析も所詮そこまでという感を強くするのみである。めがねとはアイデンティティのシンボルであり、自我の核であるとなぜ喝破できないのか。めがねを外すという行為は、アイデンティティを喪失するという意味であって、断じて「女の子として目覚める」ことではない。めがねを取った女の子とつきあうことになったとしても、男はその女のカラダだけが目的なのである。あっという間に捨てられることになるだろう。「めがねをとったほうがいい」という言葉は「おれはカラダだけが目的だ」と言っているのと同義である。このくだりは、さらなる論文で詳述したい。
全体的に、現状追認に終始し、新たな提起などひとかけらもない。そして、現状分析すら不徹底であり、問題の抽出に至るヒントすらない。雑誌の性格上しょうがないという好意的な見方をするほかないのだろうか。確かにメーカーの批判などできないし、ギャルゲーというメディアの特性上、刹那的肉体重視的傾向になるのは仕方がないといえる。所詮おんなのこの人格などは、無視されてしまうのである。人格などより「見た目」を重視するのだろう。アイデンティティなどと言っていても「売れない」のだろう。性欲の対象としてのおんなのこを描かないと「商品」にならないのだろう。そして、めがねははずしてしまうのだろう。だが、自戒の念もこめて、敢えて言おう。カスであると。
以前から密かに危惧していたことなのだが、ここまで明確になると非常に悲しい。ゲームの分野は、全体的に未成熟である。めがねっこを正当に扱う力量は備わっていない。単にめがねをかけてれば喜ぶとでも思っているのか? ばかにするな。
例えば、下の論文でわしはギャルゲーにおける人格配分に興味があると書き、実際にリサーチもしたりした。だが、「めがねファンに対するサービスとして一人は入れる」という態度が支配的であることに、愕然とし、落胆した。つまり、作品から内的必然性を持ってめがねを扱おうという意識はまったく感じられなかったのだ。めがねファンの勢力がそれだけ無視し得ないことが認識されるに至ったことは慶賀すべきだが、その内的必然性を熟慮しない限り、かならず衰退する。
我々は、優れたギャルゲーがあることを知っている。優れためがねっこを産み出していることも知っている。数多くのめがねっこファンが登場したのも、そういった優秀なゲームがあってこそであることを知っている。しかし同時に、めがねっこに対して理不尽な扱いをするゲーム、ステロタイプに終始する杜撰なめがねを粗製濫造しているゲーム、偏見を助長するだけの有害なゲーム、そしてそれにまつわる迂闊な言説も多く知っている。
めがねっこの未来のために、ゲームは非常に重要なジャンルである。そして、まだ発展途上の若いジャンルであり、これから大いに伸びていくジャンルである。多くのゲーム人の奮発を望みたい。
主人公クラスの登場人物が3人以上いるとき、そのうち一人がめがねっこ。そういうマンガがけっこうある。代表的なところでは、柊あおい「星の瞳のシルエット」、吉田まゆみ「アイドルを探せ」、CLAMP「レイアース」などがある。
このようなマンガに出てくるめがねっこを、わしは「目印めがねっこ」と定義した。
さて、目印めがねっこマンガにおいては、主要登場人物3人にけっこう単純な性格が割り振られる。例えばレイアースでは、ちっこくて行動的、美人でわがまま、知的で天然ボケ、というふうに、完全にタイプの異なるキャラクター設定がなされる。他のマンガでもほぼ同様。「星の瞳のシルエット」では、「道徳的/感情的/理性的」というキャラクター設定がなされている(めがねっこは理性的なキャラクターを担当)。
これを、「いろんなタイプのキャラクターを出せば誰か一人にはファンがつく」というように解釈すると、本質を見誤る。三人それぞれに、タイプが異なる単純な性格を割り振るのには、物語構成上の重要な戦術があるのだ。
たとえば、道徳的なキャラクターと感情的なキャラクターがケンカをするエピソードがあったとしよう。読者は、それをどのように読むのだろうか。人間は複雑な人格を持っていて、100%道徳的だとか、100%理知的だということはあり得ない。だから、読者は、道徳的なキャラクターにも、感情的なキャラクターにも、ある程度の割合で感情移入する(その割合は人によって異なる)。すると、道徳的なキャラクターと感情的なキャラクターがケンカをするエピソードは、一人の人間の中の道徳的な部分と感情的な部分の葛藤として読み替えられるのだ。道徳vs.理性、理性vs.感情、または3人のバトルロイヤルも同様。それらキャラクターの対立は、そのまま人間の心の中の「道徳/感情/理性」の葛藤となるのだ。つまり、これらのキャラクターをどのような比率で登場させ、誰をもっとも優位におくか、そのバランスによって、作品自体がある人間の人格と等値になるのだ。
さて、こういうとき、ある人間がめがねっこのみに深く感情移入する場合がある。わしが「星の瞳のシルエット」の沙樹ちゃんに深く感情移入したように。これは、その人物の人格自体がめがねっこ的、この場合は「理性的」であることを意味する。ってことは
わしって理性的!?
それはともかく、こういうふうに、複数のキャラクターに単純な人格を割り振るという様式は、別の一群の作品にも見られる。そう、「秘密戦隊ゴレンジャー」だ。アカレンジャー、アオレンジャー、ミドレンジャー、キレンジャー、モモレンジャーは、「熱血/クール/チビ/デブ/女」というふうに性格が割り振られている。これはそのまま「科学忍者隊ガッチャマン」や「コンバトラーV」、「ボルテスX」や「宇宙の皇子」にもあてはまる。「機動戦士ガンダム」にさえあてはまる(まあ、アムロを熱血というのは無理があるが)。死ぬのがデブというのもなぜか共通している。
3人の場合は「ゲッターロボ」で、「熱血/クール/デブ」となる。死ぬのはやっぱりデブである。なぜ? あとはこのタイプには、「アクマイザー3」、「スタージンガー」、「超人ビビューン」、「巨人の星」、「ゲームセンターあらし」などがある。女が絡むと、例えば「超音戦士ボーグマン」は「熱血/クール/女」タイプで、これは「未来警察ウラシマン」や「赤い光弾ジリオン」の系譜にある。「ザンボット3」や「戦国魔人ゴーショーグン」もこれか。ちょっと毛色が異なるが、「タイムボカン」シリーズの悪役3人組は「やせ/デブ/女」だ。
4人の場合は「西遊記」で、三蔵、孫悟空、沙悟浄、猪八戒が「道徳/熱血/クール/デブ」になり、「アニメ三銃士」では、ダルタニャン、アトス、ポルトス、アラミスが「熱血/クール/デブ/女!」となる。「超獣機神ダンクーガ」は「熱血/クール/チビ/女」だ。
藤子不二雄の場合は「マスコット/アホ/金持ち/デブ/女」や「アホ/猿/女/デブ」などという一種独特のパターンを確立した。
これらは、いったい、どういう意味を持つのか? まあ、大枠としては、目印めがねっこマンガと同様のものとして考えることができるだろう。要は、3人だろうが4人だろうが5人だろうが、「熱血、クール、チビ、デブ、女」のうちから、適当に選択して組み合わせれば、なんとなく設定ができてしまうのだ。
そして、熱血は「正義」という価値の象徴であり、クールは「理性」という価値の象徴、女は「愛」という価値を象徴している。キャラクター同士がケンカするエピソードは、目印めがねっこマンガと同様、一人の人間の内部における葛藤と読むことができる。例えば人質を取られたとき、熱血は自ら犠牲になっても人質を救おうとし、クールはそのような熱血の行動を犬死にいくようなものとして非難する。それは、ある人物が女にふられたとき、「なにがなんでもガンガンいくぜ」という感情と、「女はほかにもいるさ」という感情の間の葛藤と、似ている。「正義/理性/愛」という価値の間には、しばしば解きがたい矛盾が起こる。この矛盾をどのように消化するか、一つの物語における構造と、一人の人間の心の構造は、かなり似ているわけだ。その類似を自覚的に物語の戦術にしていくわけである。
そういう意味でよくわからないのが、「セーラームーン」や「バブルガム・クライシス」、「ガルフォース」や「ようこそようこ」、さらに「サイレント・メビウス」、古くは「ウイングマン」のウイングガールズなど、女の子の集団では、必ずしも明確で単純なキャラクター配置が行われないことである(そういや、「サザンクロス」って知ってる? わしは内容を覚えてないです)。差異を意識しないキャラクターづくり、もしくは、複雑で込み入ったキャラクターづくりをしている。単純で明確な性格を割り振っている「レイアース」は、稀な作品といえる。
さて、そういう意味で最近興味を持っているのがギャルゲーだ。実はあまり詳しくないのだが、話に聞くと、ちゃんと性格を分担しているらしい。これがどういう意味を持つのか。詳しい人に考察してもらいたいものだ。ぜひ!
「メガネをとった方が美人だよ」という言葉は、これまで当たり前のように言われ続けてきた。しかし、わしは疑問を持った。「ほんとうにそうか?」
というわけで、「少女マンガ」の中に出てくる女の子に限ってだが、めがねっこがメガネをとって美人になる比率を実際に調べてみた(1997.8.12現在)。
すると、全633人中、メガネをとって美人になるのは
65人:10.27%
であった。のこりの568人(90%弱)のめがねっこは、メガネをとっても美人になることはない。当たり前だ。
めがねだからかわいいんだ!
しかし、まだ問題がある。「メガネをとって美人に」なったからといって、幸せになるとは限らないからだ。というわけで、「メガネをとって美人になる上に、だからこそ幸せになる」めがねっこを数えてみた。そんな解脱めがねっこは
21人:32.3%
である(比率は、メガネとって美人になる65人を母数にしてあります)。メガネをとって美人になったからといって、そのまま幸せになるのはわずか32%にすぎないのだ。
では逆に、「メガネをとったら確かに美人だけど、彼はメガネをかけた方のわたしを選んでくれたわ。とっても幸せよ。」というめがねっこは、
23人:35.4%
である。メガネとって美人になってそのまま幸せになる解脱めがねっこの人数と、ほぼ拮抗していることがわかる。なお、のこりの21人は、恋愛に関するエピソードがなかっためがねっこである。
さて、この統計の数を見てどう思われるだろうか。意外だろうか、やっぱりと思ったろうか。しかし、ともかく、
「メガネはずして美人になる」など、全くのうそっぱちだ!
ということは言えるだろう。
「少女マンガ」は1970年頃、構造的な大転換を遂げるが、それは日本における「恋愛」観の転換と軌を同じくする。つまり、そのころになって初めて「告白」という恋愛様式が導入されたのである。「告白」という恋愛観はおそらく一億総中流という経済的条件と文化的同一性(があるという幻想)を前提とするだろう。たとえば、1960年代の少女マンガは、階級対立がもっとも中心的な主題であった。意地悪なブルジョワジーにいじめられながらも、正直なプロレタリアートが最終的には勝利するという物語が、60年代は主流だったのだ。恋愛様式も階級図式に取り込まれ、「身分違いの恋」という主題が説得力を持った時代である。
それはいいとして、「告白」という恋愛観は、まさに「告白」という用語を用いたところに大きな意味があると認められる。誰が最初に「告白」という言い得て妙な言い回しを用いたかは現在調査中だが、それが説得力を持って社会に受け入れられたのは、現在の「告白」という用語の概念を見てもわかるだろう。いうまでもなく、「告白」とは元々キリスト教の概念であった。単純に図式化すれば、つまり「告白」とは、自らの罪を絶対者である神に言葉を以て伝える行為である。これが恋愛に転嫁されると、「告白」は、自らの罪(愛欲)を絶対者である男性に言葉を以て伝える行為となる。恋愛が成就するかどうかは、「告白」にとってはそう大きなことではない。キリスト教でもそうだが、「告白」とは、「告白」という行為自体が行為者を浄化するのであって、絶対者による恩恵によって救われるわけではない。少女マンガにおいても、「告白」行為が成就しないからといって、行為者自身が不幸になるとは限らない。「告白」が成就しなくとも、少女がそれをステップにして一回り大きく成長し、新しい人生に踏み出す物語は、多くの人が見ているだろう。
行為が成就するにしろしないにしろ、「告白」は行為者にとって大きな契機であることには変わりない。重要なことは、「告白」を行うことによって、行為者が「告白」以前と以後で大きく変化するということである。それはアナログ式の連続的変化ではなく、「告白」という微分不可能な特異点における、デジタルな不連続変化である。「告白」の導入が大きな意味を持つのは、恋愛という様式をデジタルにしてしまったということである。[恋人がいる/恋人がいない]という状態に、中間を認めないのだ。1か0か、二つに一つの状態を必ずとり、中間の値は決してとることがないのである。
ここにおいて、めがねが登場する必然性が認められる(長いまえふりだった)。なぜなら、めがねも、めがねをかけているか、かけていないか、この二つのうちのどちらかしかあり得ず、中間の状態が決して存在しないからである。めがねをかけているかかけていないかはデジタルな情報である。少女マンガは1970年以降、「告白」のデジタル情報と「めがね」のデジタル情報を組み合わせた物語の構造を綿密に作りあげていくことになる。
1985年頃から少女マンガにおいてめがねっこが減少するのも、「告白」という文脈を考えれば理解することができるかもしれない。1985年頃といえば、おにゃんこくらぶがデビューし、ねるとん紅鯨団の放映が開始された時期である。男女交際のマニュアル化が進行し、時代はバブルへと進む。こうなると、「告白」という白黒はっきり決めなければならない恋愛様式は、最先端の男女にとってはほとんど意味がなく、かえって邪魔なものである。複数の恋人とつきあって悪い道理はないのだ。そして、「告白」は、ねるとんによって究極に戯画化される。「お願いします」という「告白」の言葉に苦笑した人は多いだろう。デジタルの時代は終わったのだ。少女マンガにおいて、それをはっきりと示したのは、吉田まゆみ『アイドルを探せ』である。ついでに、めがねっこの時代も終わってしまったのである。
しかし、1985年以降は、別の様式でめがねっこが浮上する。3人以上主人公がいるとき、そのうち一人がめがねっこという様式である。1984年に連載が開始された、柊あおい『星の瞳のシルエット』がメルクマールだろう。これは、デジタルの時代が終わった後で、めがねっこが生き残る有力な様式であろう。
がんばれめがねっこ!わしはいつまでも君たちの味方だ!
めがねっこのすばらしさ(1997.8.10)
なぜめがねっこが好きなのか。それは人それぞれであって、言語化できる部分も、当然できない部分もある。わしの場合も、なぜといわれたときに「好きなんだから、好きなんだ」と言い切ってしまうのがもっとも感情に合致するのだが、それでも納得してくれない人がいるので、あえて言語化すると、次のようになるだろう。
わしがめがねっこを好きだと言ったとき、その言葉には、両立不可能な、アンビバレントな感情が含まれる。すなわち、わしがめがねっこを好きなのは、一つには「ビジュアル性」の故であり、もう一つは「キャラクター」の故であろう。
「ビジュアル性」というのは「美少女マンガ」的な要素のことである。めがねっこはビジュアルが無条件にかわいいのであって、そこに議論の余地はない。なにをかわいいかと感じるかは、まさに個人の勝手であって、わしの場合は「めがねっこはかわいい!」という反射回路ができあがってしまっただけのことである。そして、わしはどうも顔射が好きらしく、めがねっこがドロドロになってるのを見ると、もう辛抱たまらんのだ。つまり、「ビジュアル性」が好きだというのは、めがねっこの性格や人格に関わりなく、ただ単にめがねっこであるという外面的特徴、ただそれだけのことでめがねっこを愛好してしまう感情である。
しかし一方、わしは確かにめがねっこの「キャラクター」性にも惹かれている。「キャラクター」性とは、主に少女マンガで描かれるめがねっこの性格・人格、またはめがねっこマンガの構造そのものを含めた、総合的なシステムのことである。そのシステムがどのような構造と仕組みを持っているかは、また別の論考に譲らざるを得ないが、結論だけ書いておくと、めがねっこマンガにおけるめがねとは「少女の自我」そのものなのだ。わしは、少女マンガにおける、自我をめぐる葛藤とコンフリクト、そして、矛盾の解消と人格の統合という、物語の構造そのものにエクスタシーを感じる。そして、そのようなシステムが、めがねというアイテムただ一点に象徴的に集中しているからこそ、わしはめがねっこにエクスタシーを感じるのだ。このようなシステムは、当然のごとく不可視的な、抽象的な構造にすぎない。つまり、「キャラクター」性を好きなことと、前の段落で述べたように「ビジュアル性」が好きなこととは、完全に相反する感情なのだ。
[ビジュアル/キャラクター]の対立は、つまるところ、[美少女マンガ/少女マンガ]の差異に由来する。美少女マンガ(および一部の少年マンガ)においては、めがねをシステム化するところまで物語を抽象化することなく、めがねっこのビジュアル的な優秀性を前面に押し出すようなマンガが産出される。なぜなら、それこそが美少女マンガのメディア的特性であり、ビジュアルが前面に押し出されないようなマンガなど、美少女マンガなどと呼ぶことはできない。しかし、吾妻ひでおがいみじくも「美少女とは、かわいくて、かつ、主体性のない子」と言っているように、「美少女マンガ」路線でビジュアルを重視するということは、同時に少女の主体性を喪失させることを意味する。一方、少女マンガ(および一部の少年マンガ |